とある記事で
家族を助けられなかったから自分は地獄行き。
だから死んでも天国にいる家族には会えない。
そんな言葉を目にした。
この言葉の裏には、助けてあげられなかったご家族にもう一度会いたいという思いも感じられ、胸を締め付けます。
ー そんな希望は叶うことがないと理解している。
ー 助けてあげられなかったことを謝りたくても伝えることはできない。
ー 許しを請うたところで、もはや答えを聞くことはできない。
ー なぜ、助けてあげられなかったのだろう。
ー なぜ、自分の家族だったんだろう。
もしかしたら、このような思いがその方を「地獄」に連れて行くのかもしれません。
これからいくのではなくて、もう既に地獄にいらっしゃるのでしょう。
この体が生きる限界に達したとして、次はどうなるのか、どこにいくのか知りません。
いろんな説があります。
行ったことないので、わかりません。
天国を作るのも、地獄を作るのも生きている私たちかもしれません。
だからと言って架空のものではなくて、確実に認識しているので、あると言うことになるのでしょうね。
天国のイメージ、地獄のイメージはそれぞれあると思います。
キリスト教でも、仏教でも、芸術作品の中や書物にもたくさん出てきますね。
天使に囲まれた天国とか、天女が舞い踊る極楽浄土とか。
飢えて大きなお腹を抱えて苦しそうにしている地獄のイメージなども描かれています。
とりあえず似たようなものがこの世にもあるじゃないですか?
あれは既に現世の様子なんですよ、きっと。
ちょっと極端な例ですが、綺麗なお姉さんたちに囲まれてウハウハしているおじさんは天国状態ですよ(笑)
一生懸命働いて、とりあえず欲にまみれず(家族を欺いたり、酒乱だったりせず)
大人の余裕でウハウハできるなら最高じゃないですか?
羨ましい限りですね〜!
この世は確かにいろんな学びがあり、したくないことも時には我慢しなければならない時もあります。
それがただのストレスとかではなく、成長につながっていけばいいと思います。
その上で、ウハウハ気分が増えれば、天国が増えるとは考えられませんか?
そのウハウハを意図的に小さなことでもいいから作ってみてはいかがでしょう?
今日は好きなもの食べるぞ!とか
大変な仕事だけど、推しの写真をデスクに飾って天国作る!でもいいじゃないですか?
皆それぞれに苦しい時期があるし、あったと思います。
私も暗黒時代がありました。
まさに地獄でした。
色々偉そうにしていますが、最近もプチ地獄ありました(笑)
愛するが故の苦しさでしょうか。
でも、その愛の概念が全くすれ違っていて、もはや生きてる世界すら違ってしまっているのは、なんとも言えない切なさを感じます。
本来、共に天国にいたい人たちを手放すのは辛いです。
しかし、それすら執着です。
執着はいつも悪いものではないですが、思いが強ければ強いほど、マイナスに転じた時に恨みに変わりやすいです。
恨みは地獄の重要要素です。
私たちを頑なに縛って、決して軽くしてはくれません。
私が一番救いたい人は、いまだに恨みの中に生きています。
家族だから、友人だから、愛する人だから救わなくてはいけないと言う考えは、救えなかった時に冒頭の記事のように地獄へ陥れてしまうかもしれません。
人を、起きた事象を、自分を恨んでも何も良いことはありません。
だから、私も苦しむのをやめました。
天国や地獄があったとして、それを味わうのはまさに、今です。
当たり前です。
未来の味なんて、今この瞬間味わうことはできません。
あと何回、クリスマスやお正月を迎えることができますか?
そんなことわかりっこないのです。
一生懸命生きると決めたら、今生きる世界を天国にしていきましょうよ。
柳のように、固執せず柔軟に。
奇しくも2025年は旧正月から、宿曜経で「柳宿(りゅうしゅく)」の年です。
柳のようにしなやかに、龍のように悠々と広い世界を豊かに生きるイメージは素敵じゃないですか?
冒頭の方もいつか心がほぐされて、霧が晴れることを願っています。
現時点で地獄を感じていることも、きっと天国にいざなうエネルギーの一つとなるでしょう。
無駄ではないはずです。
私もダメージは大きいですが(笑)無駄ではなかったです。
ブログを読んでいる方も、過去や現在の恨みを現世でウハウハほぐしていきましょうね。
私たちは天国を作れます。
天国を無限に作ればいい。できます。
また、書きますね^^
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